
病の語り Illness Narrative
文体論の知見・手法を援用すべき分野として「病の語り」が挙げられます。「人が症状を患うことの経験」をより深く理解するために、文体論ができること・やるべきことを追究しています。
研究内容
筆者が行っている「病の語り」の研究は、これまでのところ著書等の形で公表されている「医療ノンフィクション」を対象に行っています。その一つ、2012年に出版されたBrain on Fire(邦訳『脳に棲む魔物』)は、抗NMDA受容体脳炎という難病に冒された著者スザンナ・キャハラン(Susannah Cahalan)が、その闘病から治癒までの過程を、本人が行った聞き取り調査や医療記録、家族の日誌等をもとに再現したものです。本作品は、2016年に『彼女が目覚めるその日まで』として映画化され、日本でも上映されています。
マンハッタンでひとり暮らしをする24歳の新聞記者のスザンナに、ある朝突然心身の変調が起こる。最初は虫に噛まれたものと気にしなかったが、徐々に左腕がしびれ、それが左半身にまで広がる。同時に、仕事への意欲や集中力を失い、さらには幻視や幻聴を体験し、口から泡を吹き、全身を痙攣させる激しい発作を起こすまでになる。医師は、その症状から癲癇を疑い、また別の病院では精神障害・神経疾患の診断もなされるが、処方薬は効果がない。検査でも原因を突き止められず、症状は悪化の一途を辿る。ついに医師たちが匙を投げかけたとき、診察チームに新たに加わったナジャー医師(Dr. Najjar)が、スザンナに寄り添い、「ナラティブ・メディスン」を実践することにより、その病因を突き止める。
このようにBrain on Fireは、前途有望な新聞記者の身に突如起こった実際の出来事が再現されたノンフィクションです。その一方で、病気が引き起こす絶望・苦痛・希望・歓喜といった心理描写や、患者を支える家族・友人・恋人との人間関係の描写には、高度な文学性が施されています。
筆者は、この作品を患者が語る病のナラティブととらえ、これまでに計3度の発表の機会を得て論考を加えてきました。以下発表順にそれぞれの内容について紹介します。
1.日本国際教養学会(JAILA)第7回全国大会シンポジウム
―文学は医療に貢献できるか―物語・文体・認知の視点から―
■(2018年3月10日、於鶴見大学)
本シンポジウムは、科学研究費補助金基盤研究(C)「医療・心理・教育におけるナラティブ・データの分析手法の確立と文学研究への応用」(代表:奥田恭士)の一環として行われ、物語・文体・認知の視点から医療における文学の貢献の可能性について追究する内容でした。当日はまず、小比賀美香子医師(岡山大学)が医療現場におけるナラティブの意味と活用例について問題提起し、引き続き奥田恭士氏(兵庫県立大学)、奥聡一郎氏(関東学院大学)、および筆者が、物語論及び文体論の視点から具体的な分析事例を提示しました。対象となったテクストは、ノーベル文学賞受賞作家カズオ・イシグロの代表作『日の名残り』(文学)、介護老人施設入所者による語り(ライフレビュー)、さらに文学と非文学の中間ジャンルと言えるジャン=ドミニック・ボービーの回顧録『潜水服は蝶の夢を見る』、そして前述の『脳に棲む魔物』です。その様子は、プロシーディングとしてまとめられています。
さらに、その1年後には共著論文としてJAILA Journal 第5号に掲載されています。
2.「文学と医療をつなぐ文体論の役割
―Brain on Fireの思考描出の分析を通じて―」
■(Persica 第46号、2019)
本稿では、上記のシンポジウムで扱った作品の中から、特にナラティブ・メディスンとの関係が深い作品としてBrain on Fireを選び、その文体分析と考察を中心に論じています。この論文では、ナラティブ・メディスンの現代的意義についてリタ・シャロンをはじめとするこの分野の研究者・実践者の説く理念と理論に基づいて解説し、さらにはナラティブ・メディスンにおける文体論の可能性についても論じています。最後に「病の語り」に対する文体論アプローチの実践例として、Brain on Fireの視点と話法に焦点を当てて分析しています。
全文はこちらのサイトからご覧いただけます。
3.Stylistics as a bridge between literature and medicine: Embedded focalizers in the nonfictional narrative of Brain on Fire
■(Poetics and Linguistics Association(PALA)第39回国際大会、2019年7月10日、於リバプール大学)
ナラティブ・メディスンの目的と理念、そしてBrain on Fireの文体に関する研究成果を、文体論を専門とする学会Poetics and Linguistics Association(国際文体論学会)で発表しました。この学会は、世界の著名な文体論研究者が毎年集う学会で、日本からの参加者も多数います。拙発表ではまず、ナラティブ・メディスンの教育現場で実践される文学作品の精読(Close Reading)と、筆者が専門とする文体論との相違点について整理しています。文体論は、文学作品のあらすじやテーマに加えて、その手法等にも焦点を当てる点で、精読と共通点も多いのですが、ナラティブ・メディスンの分野にはまだ十分に認知されていないのが実情です。引き続き、Brain on Fireの分析では、作品中に見られる視点の変化について、「焦点化」(focalization)の理論を援用して説明しています。
発表を通じて感じたことは、この分野に対する世界的な関心の高さです。発表を聞きに来てくださった研究者はもちろん、会場で出展されている出版社の方からも、研究内容に関する質問や問い合わせをいただきました。
なお、本発表の全文は、この大会のonline proceedingsよりご覧になれます。
4.これからの課題
本ページの冒頭でも触れましたように、筆者が行っている「病の語り」の研究対象は、これまでのところ公表されている「医療ノンフィクション」に限られています。今後は、医療従事者との協力を進め、現場で展開している様々なナラティブも取り上げ、「生きた声」を対象にした研究が不可欠だと考えています。