研究紹介 寺西雅之 応用文体論

応用文体論 Applied Stylistic

 

応用文体論とは、文体論の知見と分析手法を社会的・日常的なコミュニケーションの深い理解のために援用し、人文科学の視点から様々な社会問題の解決を目指す学問です。

研究紹介

Results announcement

文体論は、文学作品の文体やことばを分析することで発展してきた分野ですが、近年は実用的コミュニケーション能力への関心が高まり、またSNS等多様なメディアが発達してきたことにより日常的、あるいは実用的な、「非文学」テクストの研究が急速に進んでいます。また、コミュニケーション活動は、様々な社会的場面で行われているため、その収集と分析は、社会問題の解決に繋がる可能性があります。この「応用文体論」の研究例と言えるものが、介護老人保健施設入所者のナラティブを分析した研究(内田勇人兵庫県立大学教授との共同研究)であり、坂本南美氏と実践している「教師のナラティブ分析」です。以下その概要を紹介します。

1.「庶民的ナラティブ」の文体

 介護老人保健施設入所者の事例より

(JAILA JOURNAL 第3号(2017 年3月)に掲載)

日本の要介護者・要支援者は平成24年度末の時点で 545.7 万人 に達しており、 介護ケアサービスの拡充・充実、介護予防、要介護度の重度化予防、疾病・合併症の発症予防は喫緊の課題となっています。中でも忘れてはならないのが、要介護者・要支援者への精神的要素のケアです。外界と意思疎通する意志・機会の喪失により、認知症等の症状を持つ高齢者が 社会との「つながり感」を失ってしまい、その結果疾病がさらに進行してしまうというケースは少なくありません。そのような状況の中で注目されているのがライフレビュー(回想法)です。ライフレビューとは、要介護者の精神的な要素に働きかける手法の一つで、人生の歴史や思い出を聴き手が共感的に聴き、相互作用を通じて高齢者自身が自己を洞察していく方法です。

ライフレビューの介入効果としては、情緒の安定、問題行動の軽減、うつ傾向の軽減、対人関係の改善などが挙げられますが、最近では特に認知症の進行の抑制に対する効果が期待されています。本研究では、ライフレビューを実施し、その語りを録音後、テクスト分析を行っていますが、それには健康科学および文体論の観点からそれぞれ理由があります。前者に関しては 、介護、疾病、認知症発症等の「予防」を目的としたライフレビューの実践と、要介護者・認知症者の要因や症状の「多様化」に応じたライフレビューの効用の分析の必要性が挙げられます。このように医療・介護・健康教育分野ではライフレビュー介入の「治療的効果」が注目されていますが、筆者の専門の文体論の立場からは、ライフレビュー(ナラティブ)そのものの内容・文体には焦点が当てられてこなかったという問題が指摘できます。

以上の両分野の現状を踏まえて、本研究では、高齢者による回想ナラティブと認知症の進行度の相関性に着目し、2 人の介護老人保健施設入所者の語りを対象に、その語り方と 文体 を分析・考察しています。なお本研究 は、科学研究費補助金研究基盤(C)「医療・心理・教育におけるナラティブ・データの分析手法の確立と文学研究への応用」(代表:奥田恭士、2016-2018)の一環で実施したものです。本論文全文は、こちらのURLからご覧ください。

2. ナラティブを通じた外国語指導助手のアイデンティテ ィ構築に関する事例研究

社会文化及び文体論の視点から

(A case study of ALT identity construction through narrative inquiry: sociocultural and stylistic perspectives) 

(PALA 2019(Liverpool University)にて口頭発表、online proceedingsにて論文掲載)

本研究は、日本の公立中学校に勤務する二人の外国語指導助手(ALT)を対象に彼らのインタビュー分析より、教師としてのアイデンティティの構築について可視化を試みたもので、その成果は文体論を専門とする国際学会「国際文体論学会」(Poetics and Linguistics Association)の年次大会(リバプール大学、2019年7月)にて発表されています。本研究では、坂本氏がインタビューを通じて収集したALT(Assistant Language teacher)のナラティブに対して、その内容(what)に注視した社会・文化的分析と、その語り方(how)に焦点を当てた文体論的分析という2つのアプローチを取っています。今回のALTの語りからは、教師としての立場と、生徒にとっての「親しみやすい存在」という2つの異なるアイデンティティの間で揺れる葛藤や、それを乗り越えてALTとしてのアイデンティティを自身で構築する姿が読み取れましたが、その過程は、彼らがインタビューで用いた英語の複雑さ、繰り返し、代名詞の用法といった文体面にも反映されています。本稿は、教師のナラティブ分析に文体論の手法を援用することが、彼らの教育理論や教師としての成長の理解にどのように貢献できるのかという問を追究した、新規性の高い研究となっています。

本論文全文は、こちらのURLからご覧ください。

また、本ホームページの研究内容紹介ページ「外国語教育における教師・ALTのナラティブ研究」には、本稿に関連する研究が紹介されていますので、ぜひご覧ください。

1.日本国際教養学会(JAILA)第7回全国大会シンポジウム

 ―文学は医療に貢献できるか―物語・文体・認知の視点から―

(2018年3月10日、於鶴見大学)

本シンポジウムは、科学研究費補助金基盤研究(C)「医療・心理・教育におけるナラティブ・データの分析手法の確立と文学研究への応用」(代表:奥田恭士)の一環として行われ、物語・文体・認知の視点から医療における文学の貢献の可能性について追究する内容でした。当日はまず、小比賀美香子医師(岡山大学)が医療現場におけるナラティブの意味と活用例について問題提起し、引き続き奥田恭士氏(兵庫県立大学)、奥聡一郎氏(関東学院大学)、および筆者が、物語論及び文体論の視点から具体的な分析事例を提示しました。対象となったテクストは、ノーベル文学賞受賞作家カズオ・イシグロの代表作『日の名残り』(文学)、介護老人施設入所者による語り(ライフレビュー)、さらに文学と非文学の中間ジャンルと言えるジャン=ドミニック・ボービーの回顧録『潜水服は蝶の夢を見る』、そして前述の『脳に棲む魔物』です。その様子は、プロシーディングとしてまとめられています。

さらに、その1年後には共著論文としてJAILA Journal 第5号に掲載されています。

2.「文学と医療をつなぐ文体論の役割

 ―Brain on Fireの思考描出の分析を通じて―」

Persica 第46号、2019)

本稿では、上記のシンポジウムで扱った作品の中から、特にナラティブ・メディスンとの関係が深い作品としてBrain on Fireを選び、その文体分析と考察を中心に論じています。この論文では、ナラティブ・メディスンの現代的意義についてリタ・シャロンをはじめとするこの分野の研究者・実践者の説く理念と理論に基づいて解説し、さらにはナラティブ・メディスンにおける文体論の可能性についても論じています。最後に「病の語り」に対する文体論アプローチの実践例として、Brain on Fireの視点と話法に焦点を当てて分析しています。

 全文はこちらのサイトからご覧いただけます。

3.Stylistics as a bridge between literature and medicine: Embedded focalizers in the nonfictional narrative of Brain on Fire

Poetics and Linguistics Association(PALA)第39回国際大会、2019年7月10日、於リバプール大学

ナラティブ・メディスンの目的と理念、そしてBrain on Fireの文体に関する研究成果を、文体論を専門とする学会Poetics and Linguistics Association(国際文体論学会)で発表しました。この学会は、世界の著名な文体論研究者が毎年集う学会で、日本からの参加者も多数います。拙発表ではまず、ナラティブ・メディスンの教育現場で実践される文学作品の精読(Close Reading)と、筆者が専門とする文体論との相違点について整理しています。文体論は、文学作品のあらすじやテーマに加えて、その手法等にも焦点を当てる点で、精読と共通点も多いのですが、ナラティブ・メディスンの分野にはまだ十分に認知されていないのが実情です。引き続き、Brain on Fireの分析では、作品中に見られる視点の変化について、「焦点化」(focalization)の理論を援用して説明しています。

 発表を通じて感じたことは、この分野に対する世界的な関心の高さです。発表を聞きに来てくださった研究者はもちろん、会場で出展されている出版社の方からも、研究内容に関する質問や問い合わせをいただきました。

 なお、本発表の全文は、この大会のonline proceedingsよりご覧になれます。

4.これからの課題

本ページの冒頭でも触れましたように、筆者が行っている「病の語り」の研究対象は、これまでのところ公表されている「医療ノンフィクション」に限られています。今後は、医療従事者との協力を進め、現場で展開している様々なナラティブも取り上げ、「生きた声」を対象にした研究が不可欠だと考えています。